ことばを扱う者として~あの日から30年~
1月17日で
阪神・淡路大震災の発生から30年です。
年を取ったからより感じるのですが
30年という歳月は、とてつもなく重いです。
それは「ずっと心に刻もうと決めておきながら
忘れそうになる」という現実も含めて、です。
体験をしているものとして
綴らなければならないと思いました。
27歳、社会人になって4年目の冬でした。
当時住んでいた名古屋も、震度3を観測しました。
早朝でまどろみの中でしたが
「地震か?なんかいつもと違う
変な揺れ方だな」と感じました。
今のような情報拡散のスピードはありません。
時間を追うごとにじわじわと
被害の甚大さが明らかになり
それゆえに恐ろしさが募りました。
発生から約2週間後、
私はリポートをするため神戸に向かいました。
道路と鉄道は寸断されていたので
系列でチャーターした船に乗って
大阪から神戸港に降りたつと、
波止場の地面が波打って歪んでいたのに
まず衝撃を受けました。
衝撃は中心部に向かう中で
更に押し寄せてきました。
6階部分がまるごと押しつぶされ
縮んでいた神戸市役所。
社殿が倒壊し、屋根が地面に着いていた生田神社。
数回訪れ、洗練された街として憧れを抱いた神戸は
見る影もないほど傷ついていました。
そんな中、中華街である南京町で
中国の正月のお祭りである
春節祭の取材に行きました。
そこでは祭りではなく
盛大な炊き出しが行われていました。
プロパンガスや食材は
全国からの支援で届けられたもの。
水はポリタンクに入って並べられていました。
温かい食事を求めて集まった人も
ふるまう人も、被災者です。
炊き出し中の男性に声をかけられました。
「兄ちゃん、取材か。どこから来たんや」
名古屋ですと答えると、その方は
「名古屋か、そんなら名古屋の人たちに
『南京町は、神戸は負けへんで!』と伝えてくれるか」
と笑顔を見せたあと
「寒いやろ、あったまっていってや」と
食事をすすめてくれました。
「お気遣いありがとうございます。
でもほかのみなさんに配ってください」
というのが精いっぱいで
次のことばが出ず、力量不足を痛感しました。
前年の4月に名古屋空港で起きた
中華航空機140便墜落事故などの
取材の経験から
現場に行くときの心構えは
持っているつもりでしたが
未曽有の大災害の現実の前に
自分の無力感を痛感した記憶は
今も胸に刻まれています。
当時、連日被災地の様子を発信し
かつ自身も被災者であった
在阪の系列局の同期入社のアナウンサーが
全国の若い放送人を対象にした
災害報道勉強会で講義するのを
私も聴講する機会がありました。
あのときの彼の仕事ぶりと
自分の記憶を重ねて聴き入りました。
彼は、当時心がけていたことの一つに
「『がれき』ということばを使わない」
と答えました。
強い共感を覚えました。
「今目の前にある、うず高く積まれたものは
被災した方にとっては
『日々の暮らしの中にあったもの』であり
『かけがえのないもの』だったんです。
それを『がれき』ということは僕にはできない、
いや、してはいけないと思いました」
と続けていました。
同じことを、2000年9月に愛知を襲った
「東海豪雨」の現場で経験しました。
きのうまで、いや数時間前まで
それぞれの人の暮らしの中にあり
暮らしを支えていたものが
泥水に浸り、無残な姿となって
山と積まれている。
映像で、それらはとらえられている。
ではことばで伝える者として、なんと表現するか。
深く悩みました。
実際になんと言ったかは、ここでは書きません。
もう一度、私自身が考えるために
心の中で反復するようにしたいと思います。
それが 私たちの責任だと思っています。
リポートの練習中に
スタッフが撮影してくれた写真。
後ろに映る光景も
決して忘れてはいけないと心に誓っています。