tvhテレビ北海道

番組表番組表

まだ、しゃべるんですかぁ〜!?

大藤 晋司 アナウンサー

出身地
茨城県高萩市
入社
2003年4月

大藤 晋司 アナウンサー

出身地
茨城県高萩市
入社
2003年4月

矍鑠(かくしゃく)なり、「元祖」レジェンド

   

【矍鑠】かく-しゃく:年老いても丈夫で元気なさま(広辞苑)

漢語。出展は「後漢書」の「馬援(ばえん)伝」。

62歳の馬援が光武帝に戦陣に加わりたいと申し出るが

帝は老齢を気遣い許しを与えない。

そこで馬援は甲冑を身に着け颯爽と馬に乗り、威勢を誇示する。

その姿を見た光武帝は「矍鑠たるかなこの翁は」と言って感嘆した。

「矍」は目をキョロキョロさせ、素早く反応するさま。

「鑠」は輝くさま。いきいきして元気がよいさま。

   

まさしく、この言葉のままの方です。

先日、東海大四高(現・東海大札幌)

男子バスケットボール部前監督の

永野進さんとお会いしました。

2ショット②.jpg

撮影時はマスクは外していますが、お話しするときは互いにマスクを着用し

十分な距離を取りました     

1941(昭和17)年生まれの御年79歳。

同校バスケ部といえば、全国大会30年連続出場(!)、

1999(平成11)年にはインターハイ(岩手)準優勝という

道高校男子史上最高成績を持つ名門。

永野さんは学校開校と同時に創部した

バスケットボール部の監督に、

創部2年目の1965(昭和40)年就任以来

40年に渡って指導し、

ゼロから「北の強豪校」に育て上げました。

   

北海道でバスケットボールの「レジェンド」といえば

もちろん折茂武彦、現レバンガ北海道代表取締役ですが

「折茂選手」を擁するプロチームが誕生する

前の時代でいえば

永野さんはその称号を冠されるに値する

実績を残されています。

  

それ以上に

「レジェンド」と呼びたい理由があります。

13年前の2008年2月、

私のキャリア初のバスケットボール中継の

解説者を務めてくださったのが永野さんです。

解説.jpg

一応付け加えておくと、このときのチーム名は「レラカムイ北海道」。

現在のレバンガ北海道の前身にはあたりますが、運営会社は別のもの。

当然折茂社長は現役でした(ただこの試合は胃腸炎で欠場)。

TVhとしても初のバスケ中継で、

「バスケットボールを"観る"文化の第一歩にするぞ!」と

意気込んではみたものの

私自身にバスケットの知識の積み重ねがあるわけでなく

実状は手探りで

番組の成否は解説者の力量に頼るところが大きい中継でした。

そんな中、永野さんは

ときに、誕生したばかりの北海道のプロチームの成長を願う

指導者の鋭い視点で、

ときに、バスケットを多くの人に知らせたいという意志を持った

バスケ人の懐の深い視点でコメントを盛り込み

助けていただきました。

あの中継は、私のバスケットボール実況の原点。

ゆえに私の中では「元祖」レジェンドです。

  

一番印象に残っているのは

どちらに転ぶかわからない接戦となった試合終盤、

「この状況でレラカムイの選手たちが

一番意識するのはどういうことですか?」

と聞いたところ

「足を動かすことです。止まったら負けです」

と答えたこと。

   

体格では恵まれているとはいえない選手たちを

徹底的に鍛え上げて

東海大四を全国有数の強豪に押し上げた

永野さんの哲学、

「バスケットは走るスポーツ」

が透けた瞬間でした。

   

...などなど、

思い出話の花をたくさん咲かせる中で

レバンガ北海道の話題にもなりました。

今季はけが人の続出や選手層の薄さもあり

大きく低迷しています。

教え子である宮永雄太ヘッドコーチに

「今、声をかけるとすれば何と言いますか?」と質問すると

これまた、永野さんらしい答えが。

   

「ヘッドコーチ1年目だから、苦労したほうがいい。

最初に戦力が整ったチームで

うまくいってしまうと、指導者として成長しない。

今いる選手、今あるものをどうやって最大限生かすか。

それを最初に、身に染みて経験したほうが

あとに必ず生きてくるよ」

  

大学卒業と同時に

体育館もない創設間もないチームの指導者となり

駐車場をローラーで鳴らして練習するところから始めた

ご自身の経験がにじむ、

そして、教え子の将来を考えたお言葉です。

   

エネルギッシュにバスケの話をする姿は

本当に「矍鑠」。

こちらが元気をいただく時間となりました。

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