老友との別れ
「彼」との出会いは、
2003年にさかのぼる。
(もしかしたら「彼女」なのかも知れないのですが、
誠に勝手ながら、この度は
「彼」と決めつけせていただきます)
当時はまだ、前職の名古屋時代。
毎年取材で訪れていた、
北谷での中日キャンプが休みの日に
レンタカーを走らせて訪れた。
すでに北海道での新生活が決まっていて、
約1ヵ月半後には、
他局に先駆けての、移転前のファイターズ戦中継の
実況が迫っていた。
当時はまだ、縦じまのユニホームで、
正直、取材するメディアも、ファンも少なく、
どことなく牧歌的な空気の中、
公私ともに、一大転機を前にして訪れた自分だけが、
勝手に変な緊張感を漂わせていたような記憶がある。
あれから、14年。
チームの、球界での立ち位置は大きく変わり、
それに伴い、キャンプの風景もずいぶん変わった。
今年はチャンピオンフラッグが4年ぶりにはためき、
球界を代表するスーパースターをお目当てに、
ファンであふれかえった。
初訪問のときと比べると、まさしく隔世の感がある。
その中で、彼=名護市営球場だけは、
ずっと変わらずにいた。
1977年開場。
その翌年、ファイターズが球界初の
沖縄でのキャンプを実施。
現在は10球団が春季キャンプを行う
"キャンプ銀座"沖縄で、
彼は、その先駆けの象徴だった。
沖縄にプロ野球キャンプを呼び込んだ功労者として
大社義規・ファイターズ初代オーナーの銅像が
球場の入口に建立されている
固いコンクリートの内野席は、
尻にも腰にも負担がかかる。
スコアボードの表示は
「S B O」の順番のまま。
昭和の人間にとっては
子どものころの野球場の郷愁が、
またそうでない人にとっては、
近代的なスタジアムにはない
新鮮さを味わえる面も...あったのかも知れない。
ただ、やはり38年の歳月の中で、
プロ野球の進化のスピードに
取り残されてしまった感は、
どうしてもぬぐえなかった。
時に、冬場は意外と冷たい
東シナ海からの風にさらされながら、
老体に鞭打つようにして立ち続けるその姿を
ときに痛々しく感じることもあった。
長らく聞こえていた
「老朽化が著しく、使い勝手が悪い」
「プロのキャンプを行うレベルの施設ではない」
といった声は
全くもってごもっともなもので、否定の余地はない。
「でも...」
ここ数年は、沖縄に行って彼の姿を見るたび、
こんな気持ちになっていた
「そんなことは、彼自身が一番わかっているよ。
今の立ち場は荷が重い。早く解放されたい、
そう思っているはずだよ」
だから
「名護市営球場、新球場建設のために解体」
の報を聞いたときは、
驚きや感傷ではなく、
「やっと、楽になれるね。ほんとにご苦労様」が
真っ先に浮かんだ感情だった。
2017年2月25日。
阪神とのオープン戦、そしてキャンプ打ち上げを持って
彼は、38年の役目を終えた。
この後、彼はこの世から姿を消し、
3年後には、近代的で若々しい
新しい「彼」が、この地に立つことになる。
その頃はきっと、自分を含めて
彼のことは、多くの人の心から忘れられているだろう。
そのことは受け入れた上で、
最後にひとこと。
「お疲れ様。
そしてさよなら、名護球場」