「いいひと」との再会
師走の再会シリーズ、第2弾。
何かと気忙しい時期に限って
素敵な再会は重なったりするものである。
子どもがなりたい職業トップ3に常に君臨する
夢と憧れの職業。
彼はそれをかなえた、特別な存在の人。
そして、顔を合わせるたびにいつも感じるのが、
彼は「いいひと」っぷりにおいても、特別だ。
元・北海道日本ハムファイターズ選手、荒井修光(のぶあき)さん。
正確には「日本ハムファイターズ」の元選手。
千葉県出身。
県立我孫子高校3年時に投手として甲子園出場。
父である荒井致徳さんが監督を務め、
「親子鷹の甲子園」と話題になった。
西日の当たる甲子園のマウンドで力投していた姿が、記憶にある。
卒業後早稲田大学に進学し、2年から捕手に転向。
東京六大学リーグのベストナインを獲得するなど、神宮でも活躍して、
1995年のドラフトでファイターズから2位指名を受け入団。
2003年オフ、戦力外通告を受けて現役引退。
つまり、球団が北海道に移転する前にユニホームを脱いだので
正確には「日本ハムファイターズ」の選手であった。
引退後、彼が進んだのは、
「株式会社北海道日本ハムファイターズ」。
球団職員の道である。
最初の配属先は、メジャーから日本球界へ復帰し、
北海道移転の目玉としてファイターズに加入した
SHINJO(新庄剛志)選手の「専属広報」。
華々しくも、難しいポストである。
球界屈指の注目度を集める、規格外のスター選手を
時に守り、時に支え、時に活かす仕事。
SHINJO選手が「ノブ」と呼び、絶大な信頼を寄せた3年間は、
そのまま、ファイターズが北海道に根をおろし、
幹を太くし、枝を伸ばしていく時期の歩み。
そしてそれは、我々北海道のメディアが
プロ野球と関わり、ともに歩むことを学んでいった時期でもあった。
だから、つい少し前までプロ野球選手だった彼が、
「縁の下の力持ち」として日々働く彼の姿は、より深く心に残った。
そして彼は、いつも「いいひと」だった。
2006年、ついにその仕事を報われる。
移転後初のリーグ優勝と日本一。
そして、その功労者・SHINJOの現役引退。
シーズンが始まって1ヵ月後の4月の段階で引退を宣言し、
(荒井広報にだけは、開幕直後に引退を告げていたそうだが)
ラストシーズンを駆け抜けていく中での広報の仕事は
「報われる」とは書いたが、相当な神経を使ったことだろう。
その渦中でも、彼は常に「いいひと」だった。
2006年、優勝旅行先のニュージーランドにて。
当たり前だが、お互いに若い
その後も様々な部署で働いてきた彼の現在の肩書は
事業統括本部・事業企画部ディレクター(プロアマ連携担当)
「北海道野球協議会
(道内のアマチュア野球団体で作るNPO法人)に出向して、
アマチュア球界の実情を学びながら、
プロとアマ、北海道の野球界は共存共栄の道を探る、
そんな役割ですね」
現在の職域の説明から入って、いろいろな話をした。
もちろん、野球の話。
気づけば約2時間が、あっという間に過ぎていた。
あれから10年。
お互い、いい年の取り方ができているといえるかな...
結構シリアスな話もしたけれど、
彼の口調や姿勢、醸し出す空気は終始、
13年前に最初に挨拶したときと同じ
人のこころを穏やかにしてくれる、
物腰柔らかく、誠実さにあふれた、
「いいひと」のままだ。
「実は僕、少年野球というものをやっていなかったんです。
近くに野球チームがなくて、
小学6年まではサッカークラブでした。
中学校に上がって、地元にシニアチームができて
そこでようやく、ちゃんと野球を始めた。
そのときに感じたのは、
『野球をしてると、なんて幸せなんだろう』
毎日毎日思っていたあの気持ちが、僕の原点です。
高校に行って、甲子園を目指すようになり、
そこから大学、プロに進み、
『勝負を追及する野球』の中にいたわけですけど、
『楽しむ野球』と『勝つ野球』、性質の違う野球を体験したことは
今の仕事に生かせるんじゃないかと思います」
いわば、頂上からの光景と、
すそ野の光景の双方を知る人物。
そして、いつ会っても変わらない「いい人」っぷり。
現在の仕事は、まさに適任。
こういう人が、北海道、そして日本の野球界の
未来のために地道に活動していると思うと、
少し安心する。
年の瀬に、しかも日本一になった年の締めくくりの時期に
そう感じられることは、とても心地よかったし、
そう感じられた再会に、感謝です。