青春時代の真ん中は
♫卒業までの半年で 答えを出せというけれど
ふたりで暮らしたとしつきを なんではかればいいのだろう
青春時代が夢なんて あとからほのぼの思うもの
青春時代の真ん中は 道に迷っているばかり
何も調べたりもせず、すらすら書けるほど
明確に覚えている歌詞は
そんなにあるわけではないが
この歌は別。
森田公一とトップギャラン「青春時代」。
1976年発売でミリオンセラーとなった。
作詞は稀代のヒットメーカー・阿久悠。
小学校3年生の時に聴いて
「青春」という言葉を初めて意識した...かも知れない記憶がある。
「青春とは人生の一部の時間ではなく、こころのあり方である」
とはいうけれど、
やっぱり、説明不能、ときに制御不能の
圧倒的な心のエネルギーを、
あの時代にしか抱くことのできないのは
彼方に過ぎ去ったからこそ実感する揺るぎない事実。
そんな、一度しかない「疾風怒涛の日々」を
"何に"費やすか。
それはその後にやってくる、青春よりはるかに長い時間に
確実に関わってくる。
青春を、空を飛ぶことに費やす
一人の女子スキージャンプ選手が
3月4日に行われた、宮様スキーノーマルヒル(宮の森)で
今シーズン初めて、
本格的な競技会に出場した。
早稲田大学3年生の、小林諭果(ゆか)選手。
3歳上の兄・潤志郎(雪印メグミルク)は去年の世界選手権代表。
2歳下の弟・陵侑(土屋ホーム)は社会人1年目の今季、
初出場のワールドカップでいきなり7位に食い込むなど、
急成長を見せている。
岩手県ではその名を知られた「小林三きょうだい」のひとり、諭果選手も
世界ジュニア代表1回、全日本選手権2連覇、
そして昨年2月のユニバーシアード(スロバキア)では
兄・潤志郎と組んで団体金メダル獲得するなど、
女子ジャンプ界の有力選手である。
そんな彼女の「ジャンプにかけた青春」に
試練が訪れたのは昨年10月。
「夏ぐらいから左膝が痛くて
次第に日常生活でも痛みが強くなってきて」
病院に行くと、
「左膝外側半月板水平断裂」の診断が。
ジャンプ選手にとって膝のケガは職業病ともいえるものではあるが、
競技を初めて以来、初めての大きな故障だった。
本格的な競技のシーズンが近づく中で下した決断は、
「痛みを我慢して、かばいながら練習や試合をしても
思うように動けずに腹立たしいし、悔しい。
この状態でシーズンを迎えてもいいパフォーマンスはできない」と
手術する選択だった。
3連覇がかかる、
全日本選手権を目前にしての決断だった。
「手術前は年明けの大きな試合が続く時期に
復帰できるかも...という見込みもあったんですが、
思った以上にリハビリに時間がかかってしまって」
先月末のインカレまで、復帰には時間を要した。
「大学3年の冬が、いちばん大事だと思っていたので
ほとんど棒に振ってしまったのは、悔しいです」
その言葉の瞬間だけは、険しい表情を浮かべた小林選手。
「卒業後もジャンプが続けられる環境のところに
就職するために、
この冬にいい成績を出してアピールして、
春の就職活動につなげたかった」
その目論見が外れてしまったのだ。
競技人口を増やす、あるいは
選手が長く、安定して競技に取り組めるという
「すそ野」という点では、
日本の女子ジャンプ界は、まだまだ厳しい。
まして大学を経て、社会人でも競技を続けるケースは
まだまだ先達が少なく、正直、いばらの道である。
ここまで、順調にキャリアを積んできた小林選手。
それだけに、このタイミングの蹉跌を
受け入れ、消化し、前に進むのは、
容易ではないことだと想像できる。
木々に紛れるようになってしまいすいません。小林選手の1本目です。
豆粒みたいに小さくなってすいません。2本目です。
結果は、6位入賞。
「久しぶりにみんながそろった大会に来て
『おめでとう』ってたくさん言ってもらって
うれしかったですね」
と、笑顔を見せた小林選手。
そう、「遠くに飛ぶ」喜びを分かり合い
切磋琢磨し合える、仲間たちのもとに、
まずは戻ってきたのだ。
長らく「地上に留まっていた時間」を経た小林選手が
もっとも声を弾ませた言葉が
「やっぱりジャンプ楽しいー!
苦しいけど、楽しいです」
卒業までの1年で
どんな答えを出せるのか。
青春時代の真ん中を
ジャンプにかけた歳月(としつき)が
輝くものであるように
陰ながら、お祈りいたします。
「そういえば私、まだTVh杯って
出たことないんですよね。
東京に住んでいるので、頻繁には北海道の大会には
出られないんですけど、
来年には、出られたらいいなあ」
ぜひぜひ、3きょうだい揃っての出場、
お待ちしてます。