若鳥、北の空に再来す
ひな鳥が巣の中で羽を伸ばし、
若鳥として大空へと飛び立ち、
雄々しくなって、かつての空へと舞い戻る―。
スポーツを長く取材している中で、
勝敗を超えて、いい風景だなと思うことの一つだ。
かつてチームに所属した、
当時はまだ若く、成長途上にあった人物が、
別のチームでステップアップを見せ、
再びかつてのチームと相対する。
バスケットボール国内トップリーグ、NBL。
12月12、13日、きたえーるで行われた
レバンガ北海道対西宮ストークスは
それが実現したカードだ。
西宮の指揮官、上田康徳ヘッドコーチ(HC)、29歳。
NBL12チームのHCの中でただ一人の20代。
12人しかいない、国内トップリーグチームの"ボス"の一人は
かつて、北海道で「下積み」を重ねた。
6年前、レラカムイ北海道(当時)に
アシスタントマネージャーで在籍していた
当時の印象を正直に申し上げれば、
「低すぎるぐらい腰が低い」若者で、
失礼ながら、統率者のカリスマ性のようなものは微塵も感じられず
現在の姿は、全く想像できなかった。
福井県出身の上田HC。
小学5年からバスケットボールを始め
地元の名門・北陸高に進学したが、
高3の春に、監督、チームメイトから
マネージャーになることを勧められる。
それは「プレーヤー」からの決別を意味したが、
彼はそれを受け入れ、そして
その仕事に人生をかけることを決意する。
進学先の中部学院大でも、3年生から学生コーチを務めた。
そのとき、ドイツ屈指のコーチ、
トーステン・ロイブル氏(現・U-18日本男子代表HC)の指導を目の当たりし
「大きな衝撃を受けました」という。
卒業後の2009年、縁もゆかりもない北海道へ。
高校の先輩である、
当時の東野智弥HC(現・bjリーグ浜松・東三河HC)に自ら連絡を取り
「年俸ゼロ円だぞって脅されましたけど」
バスケットの現場で働くスタートを切った。
彼と初めて会ったのはこの頃だ。
その後、新たなチームとして発足した
レバンガ北海道ではマネージャーに。
またまた自ら売り込みをかけたそうだが、
「上田が身体が空いているらしいから」と球団に呼びかけたのは、
彼の仕事ぶりを間近に見てきた
日本バスケット界のレジェンド、
折茂武彦、現社長兼選手だった。
またそのときHCに就任したのが、
なんと偶然にも、トーステン・ロイブル氏。
憧れの指導者の元で、密度の濃い時間を過ごした。
物語はまだ続く。
1シーズンでレバンガを退任したロイブル氏は
その後、国内各地でバスケットボール教室を開催していたのだが、
上田HCはそこに押し掛け「ドイツでバスケットを学びたい」と直訴。
するとロイブル氏は即座に手続きを進め、
彼の故郷のチームでアシスタントコーチ(AC)に就任。
「家の芝刈りを手伝う約束で」
ロイブル氏の自宅に居候させてもらい、
1年で、ドイツのコーチングライセンスも取得した。
帰国後、母校・中部学院大で指導している最中、
現在のチームにまたしても売り込みをかけ、ACとして入閣。
するとそのシーズン中に成績不振から前HCが解任され、
急きょ、HCに昇格して残り試合を指揮し、
そのまま、2シーズン目を迎えている。
まるで何か特別な力に導かれてきたかのように
一気に階段を駆け上がってきたように映る、この経歴。
彼は今も「低すぎるほど腰の低い」若者のままだ。
ただ、バスケット指導への情熱、
その情熱に素直である行動力、
そして、周囲の人に目をかけてもらえる、裏表のない人柄は
どんなときも、あふれている。
これこそが、彼を導いた、特別な力なのだ。
1戦目には敗れたが、13日の2戦目は、
最終ピリオドに11点差を逆転し、西宮が勝利。
シーズン3勝目(15敗)を挙げた。
試合後の記者会見では
「北海道は自分にとって、思い入れの強い場所。
そこで勝って、恩返しができました」と話した上田HCだったが、
帰り際に声をかけると、
「ようやく3勝しただけなのに、勝った瞬間は泣いちゃいました」
と、素直に喜びを口にした。
そこに、負傷のため欠場した、折茂選手が姿を見せた。
自分たちを破った16歳年下の敵将に、
憎まれ口を言いながらも、その表情は緩んでいて、
29歳の自称「なんちゃってHCです」は、
頭を下げっぱなしながら、その目は輝いていた。
次に北の空に飛来するとき、若鳥はどれほど大きな翼を広げているのだろう。
そう思える時間が、これからも続きますように。