今も疾走(はし)る君へ
シルバーウィーク最終日の9月23日。
前日に懐かしい声で来札の旨を聞き、
こころ弾ませながら向かった札幌ドーム。
お目当ては、淺間選手のサヨナラタイムリーで勝利した
ファイターズの試合...ではなく、
試合後のイベント。
試合観戦に訪れた人たち向けの
キャッチボールや記念撮影会などが体験できる
グラウンド解放イベント。
そのうちの一つの企画「かけっこ教室」に、彼は現れた。
陸上・短距離で一時代を築いたスプリンターである。
彼の名は、青戸慎司。
88年、日本人で初めて10秒3を切る日本新記録(当時)の
10秒28を樹立。
同年のソウル、92年バルセロナと2大会連続で五輪出場し、
バルセロナでは4×100mリレーのメンバー(1走)で6位に入賞。
60年ぶりの短距離での五輪入賞選手となった。
彼と知り合ったのは、この年の冬。
バルセロナの快挙を祝う多くの表彰式のうちの一つに
こちらはいち取材者として会場にいただけだったが、
同い年で、レベルでは天地の差はあっても、ともに陸上部出身。
さらに、互いにちょっとマニアックに陸上を語るのが好き、
ということがきっかけで、仲良くなった。
その後、98年の長野五輪に、ボブスレー代表で出場。
200㎏を超えるそりを、スプリント力を生かして押す役目を担い、
日本男子初の、夏冬五輪出場を果たした。
陸上とは全く異なる「ボブスレー使用」に肉体を改造し、
時速130キロ以上の「氷上のF1」に果敢に挑む姿を、
震えるような気持ちで見守ったことを思い出す。
「野球でボールをどう投げるか、どう打つかを
教わる機会はいろいろあると思うけど、
走ることは、教わらなくても誰でもできるから、
速く走るにはどうしたらいいかを知る機会は
あまりないと思います。
速く走るのにも、コツがあります」
そう口火を切って、自ら身体を動かしながら指導開始。
親しみやすい和歌山なまりの口調で、
どことなく「気のいいおっちゃん」の雰囲気を醸しつつ
わかりやすく教えていく。
中京大学陸上部監督にして、
早稲田大学大学院スポーツ科学研究科に学び
2012年に書いた修士論文は
「かけっこ指導法の改善に関する研究」。
筋金入りの「かけっこ指導の権威」なのだ。
名古屋ではスポーツコメンテーターとして
テレビ出演も豊富だったので、
しゃべりもお手の物だ。
でも、半袖から覗く二の腕を含め、
その肉体は、未だ均整がとれたアスリートの姿。
40歳近くまで、年代別の日本記録を目指して
現役で走り続けた証は色あせていなかった。
「私が小6のときの50m走のタイムは7秒2。
飛びぬけて速いタイムじゃないです。
君たちだって十分出せるタイムです。
それが最速で5秒3にまでなりました。なぜか。
その記録が出るような練習をして、努力をしたからです。
君たちだって、眠っているすごい能力があるかも知れない
その能力を実際に出すかどうかは、君たち次第です」
締めくくりの言葉も彼らしい。
紛れもなく天賦の才に恵まれた人間なのだけれど、
その能力によって「生かされている自分」を自覚し、
スプリントという競技と、人生に対して常に謙虚に向き合い
妥協なく前進していく。
そんな人間性が透けて見える言葉だった。
終了後、久々に一緒に食事をし、
長らく語り合うことができた。
「お互い年をとったよね」から始まり
「でも、だからこそやりたいことやできること、
何をしていったらいいか、見えてくるよね」
という会話になった。
「フィニッシュラインは、もう見えてきてる。
このままいったら、たとえ"流して"走っても
ゴールにたどり着くことはもうわかる。
ケガしないように、加減して走って
『お疲れさん』って、イメージもできる。
でもやっぱり、走り切りたいよなあ。
走ってんねんから」
20代の頃に間近で見た
全盛期の彼の、トレーニングや自己管理の姿を思い出した。
「苛烈」のひとことに尽きるものだった。
「寿命は間違いなく縮んでるわな」
表情一つ変えずに続けた。
「だってこうせな、勝てんのやから、やるやろ」
生命を削り取りながら、競技に臨む。
それがアスリートの本質であることを、見せつけられた。
「陸上競技は、あらゆるスポーツの中で
勝敗に関して最も曖昧な要素がない。
100分の1秒や1センチで、勝者と敗者がはっきり分かれる。
こんなにシンプルで、ごまかしがきかない世界はない」
彼の言葉である。
長らく、そこで生きてきた、そして今も生きている彼の
心に宿るものは、あの頃と変わっていない。
これからどんなことがあろうとも
彼は、自分の人生を疾走(はし)るだろう。
100分の1秒でも、己が身体を前に進めることに妥協しないだろう。
それがわかったことが、うれしかった。
「俺も疾走るよ」
とは言えなかったけど、
「休まずに、完走は必ずするよ」とは、心の中でつぶやいた。
君は、スプリンター。
僕は長距離走者なので、こんな感じで許してね。
また逢う日まで。