冬空の彼方
「言葉は、人を傷つけたり、悲しませるためにあるのではなく、
元気づけるためにあるのだ。」
プロ野球のキャンプが花盛りとなるこの季節は
3年前から、哀悼と決意が胸を埋める季節となっている。
そんなときに再会したのが、この言葉だ。
自分の人生を決定づけた、運命の人。 その方とお別れをしたのが、この季節。 過去、何度か書かせていただいた、アナウンスの師匠。 正確に言えば、具体的な技術指導を受けたことはない。 ただアナウンサーという職業を志しただけの 「それだけ」だった若者(というより若造)に その職をどう目指し、その職に就くものはどう生きるべきか、 いわば人間としての根本の部分を教えてくれた方である。 4年前の秋に急逝され、そのお別れ会が開かれたのが およそ4か月後の1月末のこと。 全国に散ったアナウンサーの教え子たち、 あるいは、就いた職業に関係なく その方のもとで学んだ者たちが 会場に入りきれないほど集まった。 アスファルトとコンクリートの間に広がる、冬の曇天。 グレーに染まった、東京らしい冬景色を見る度に あのときの思いが胸を揺さぶる。 その方が生前に遺した足跡を思い返していたときに たどり着いたのが上記の言葉だ。 自らの思想、感情を表に表し、 他者とコミュニケーションを取る手段である言葉は 使い方によって、光にも、陰にもなる。 誹謗、中傷、揶揄、皮肉、罵倒、悪意、 自己正当化のための他人への攻撃。 そうしたことのために使うことも可能なものだ。 また、自分としてはそんなつもりはなくても 相手の受け止め方によっては、 不快や苦痛を与えてしまう。 しかもさらに厄介なところは 一度表に出てしまった言葉には 思いがけず発したものと 練りに練って、確信を持って使ったものの区別はつかず、 全て「その人が放った言葉」になってしまう。 言葉を生業とする職業はいろいろあって、 中には言葉で誰かを攻撃することで生活する商売もあるだろう。 ただ、少なくとも、アナウンサーというものは 言葉を生業とする職業の中でも 「人を傷つけたり、悲しませるためにあるのではなく、 元気づけるために」 言葉を使うのが本質であると信じている。 最近はSNSなど ネット内での新たなコミュニケーションも一般化していて そうした場に関わるアナウンサーも増えている…ようだ。 (残念ながら自分はそこに踏み込むことができずにいる 時代遅れな人間なので実状がわからない) 言葉を使う「世界」が多様化して その世界ごとに、独自のルールがあるように思われがちだが、 それぞれは、独立した世界ではない。 同じ人間が発している以上、使う場が異なっても、 「そこだけの言葉」という訳にはいかない。 自分がどこにいても、どの「世界」にいても 言葉を発する「個人」は鋭利な目にさらされている。 「使い分ければOKじゃん」と、勝手に使い分けられない。 それがこの職業の宿命だ。 ときにそれは息苦しさも覚える。 その上で 「言葉は人を傷つけたり、悲しませるためにあるのではなく、 元気づけるためにある」 という言葉の真意を考えてみる。 どんな「場」でも、そういう気持ちで 言葉を使うことができますか? どんな「場」でも、ありのままの自分として そういう気持ちでいられますか? そう、問い詰められている気がする。 いつも穏やかで、優しい眼差しを向け続けた恩師の その心の中に宿っていた、激しく、強い思いが 思い起こされて、身震いする。 この身震いができなくなったら アナウンサーという仕事に 区切りをつけるつもりでいなければならないと感じる。 3度目の冬。 札幌はあのときの東京の空よりも 強いグレーに包まれる日が多い。 その冬雲の向こうから 恩師は問いつづけている。