座右の書
「読書の秋」を意識したわけではなく、あくまで偶然の出逢いではあるが、
久々に「自分のこころの支えにしたい本」に会った。
今まで「こころに残る本は何ですか?」という質問への答えは
迷いなく、沢木耕太郎の「敗れざる者たち」(文春文庫)だった。
ページはほとんど黄土色に変色してます
1979年に刊行されたこの本との出逢いは、中学1年の夏だったと思う。
蒸し暑い夏休みのある日、縁側で上半身裸になって、むさぼり読んだ。
以来、この本はずっと自分の傍らに居続けている。
高校入試の前、大学入試の前、就職活動の最中。
社会人生活の中で迷いが生まれたとき。
「答え」が欲しいときや、不安を打ち消したいとき、
いつでも手にとろうと思い続けてきた本である。
それはすなわち、自分の生き方に大きな影響を与えた、
もっといえば、自分の生き方の道標となった本でもある。
作品として素晴らしい本は、それ以後も読んだと思っている。
しかし、自分の人生を規定してしまうほどの存在にはならなかった。
ただそれは、13歳という、初めて読んだ時期にもよるのだ、と思ってきた。
読む側の感受性、感性の柔軟さがあってこそ、
この作品は自分にとってそれほどの大きな存在になり得たのだと思ってきた。
それに匹敵するインパクトを持つ本に、この年になってまた出会えるとは思わなかった。
震えるような思いで一気に読み、
以来、いつも鞄の中に入れている。
13歳のときに感じた思いと同じような感覚になったのはなぜだろう。
どちらもスポーツを題材にしたノンフィクションだから、という答えは、余りに単純すぎる。
答えは、この作者があとがきに書いたこの言葉にあった。
13歳の時の読後感と共通したものが、そこにあった。
『彼らが望むのは、眼に見える結果ばかりではないはずだ。真の勝利は、挑む過程で懸命であれたかどうかを知るたった一人の人間、自分自身の心にある。
なぜ生きるのか、という問いはあっても答えなどないし、なくていい。すべてが無意味でも、すべてが無価値でも、人にできるのは、ぶざまに疲弊しながらも、終わるまで終わらせまいと、命いっぱい生きつづけることだけだから』
両著に共通して描かれている、登場人物のこうした姿に、
少しでも近づきたい、と思い続けている自分がいる。
そんな生き方ができているか、まったく自信はないけど。
今年も実況することになっている、
バスケットボールの勉強の足しになれば、と思って手にとった本だった。
間近に迫った中継の実況前に
バスケットの世界に、こんな生き様を見せる人たちがいることを知って、
こころの奥に、灯が点っている。
自分が伝えるべきものを示してくれる灯りである。
『空席の目立つセミファイナル。
佐古賢一はしかし、全力で走っている。
親しんだ競技がたまたま野球ではなくバスケットボールだったという一点で、佐古はいま、閑散とした舞台にいる。バスケットボール選手の努力が、プロ野球選手のそれより劣るはずはない。身長二メートル超の外国人選手たちとぶつかりあえる筋力。競技時間中ほとんど走りっぱなしの持久力。三・〇五メートルの高さにある直径四十五センチのリングに直径二十四センチのボールをくぐらせる技術力。野球の日本シリーズでは監督胴上げの際に選手たちがテレビカメラに向かって戯けている。バスケットボールのファイナルでは、試合を終えてはしゃげる選手などいない。みな倒れるようにして抱き合って涙している。バスケットボール選手は一様に薄給で、一億円プレーヤーなど一人もいない。一流選手でも親会社の経営状態でリストラされる。名声もこの狭い世界に限られ、MVPでも日本一でも、一般社会では尊敬もされなければ羨望もされない。日本におけるバスケットボール選手は、どこまでも哀しく恵まれない。
世間に見向きもされないセミファイナル。
佐古賢一はしかし、全力で走っている。』(本文より)
佐古賢一とは、レラカムイの折茂武彦と同じ39歳。
二人はともに今季も現役であり、日本バスケット界の「プレーする伝説」である。
自分が実況しようといている世界は、こうした人物たちが生きている世界なのだ。
今シーズン最初のバスケットボール中継の実況、
「レラカムイ北海道 対 パナソニックトライアンズ」は
10月4日(日)午後2時から。
放送席の傍らの鞄の中には
平山譲著「ファイブ」(幻冬舎文庫)が入っているだろう。